観覧席の保護者


スイミングスクールでは観覧席に沢山の保護者がいて練習風景を見ている。多くの人が我が子の様子に興味津々で、私が新米コーチだった頃はその光景が大きなプレッシャーだった。なるべく観覧席を見ないようにしてレッスンを行っていた。

ある時、新米の私と先輩コーチ二人で3つのグループに分かれて指導していた。 その日のレッスンが終わり、生徒達が帰った後に三人でジャグジーに入た。 一人の先輩コーチがジャグジーを出て、プールサイド備え付けのシャワーへ向かったが数秒で戻ってきた。

「 観覧席からジーっとこっちを見ている保護者がいるけど、誰かクレームになるような事をした? 」

一番若手の僕が疑われているようだったが、身に覚えが無かった。 先輩はもう一度観覧席の様子を見た。

「やっぱりずーっと見てはる。何か心当たりないの?」

その先輩によると保護者は物言いたげな様子だという。私はひどい近視だが、プールなので手元にメガネは無く、観覧席の様子を知る事は出来ない。

大きな不満をかかえている観覧席の保護者をどう対応するか、死角となっているジャグジーで緊急ミーティングが行われた。

何の答えも出ないまま私たちは早々にジャグジーから出た。だが、観覧席を見ると先ほどの保護者の姿は無かった。 先輩は追いかけるように素早く着替えて受付に向かった。

私はクラスの担当になって間もないので、私が何かミスをしでかしたと、先輩も私も同じ思いでいた。事務所に戻ると深刻な表情をした先輩が

「特に今のところ何も無い。もし先ほどの保護者から連絡があれば君に電話する。」

帰宅途中に何度も何度もその日のレッスンを思い返したが、不手際を思い出せない。大きなクレームほどコチラが先に動きたいのだが、全く身に覚えがない。 ただ、ずっと観覧席に滞在していたのだから、私たちに対して何かしら訴えたかったというのは容易に想像できる。

そういう時は胸が苦しくて食欲はない。母が作ってくれた夕飯を無理やり胃に押し込んで眠れない夜を過ごした。ついに浅い睡眠のまま 次の朝がきてしまった。朝食時に母が口を開いた。

「レッスン終わったんやったら、手ぇくらい振ってくれたってエエのにぃ…子供らが帰ってからもずっと見てたんやでぇ。3人でコソコソして待てども待てども全然出てきてくれないんだから…」