泡って、浮くね。 4

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~練習→習得→遊び→気づき~

レッスン終了前の5分で胸が苦しくなる出来事が起きた。

この時点で生徒は私のサポートを必要としなくなった。新しく得た「浮き身の術」を楽しんでいた。ジャグジーの隅で浮いていたかと思ったら、ジャグジーの泡の上で浮き始め、ジャグジーの水流で体が流されるのを楽しんでいるようだった。

ふいに生徒はコチラを見て言った

 

泡って、浮くね。

 

たぶん、これは“気づき”の言葉なんだろう・・・
ジャグジーの泡には浮き身をサポートする効果があると言っているのだろう

 

そう感じた瞬間、私は胸に強い圧迫を感じながら鳥肌が立った。

数秒の間、ジャグジーの音が霞み、ほどなくして再びボコボコという泡の音が聞こえてきた。

今、この瞬間に僕たちは互いに学びあったと実感した。

 

子供から言葉を引き出すというのは、こういうことか!

 

レッスン途中にヘッドがやってきて、「千葉く~ん、ジャグジーで練習したらアカンねんでぇ。」という光景を思い出しながら『見ているか!僕たちのこの美しい瞬間を、オマエには汚せまい!』と、心のなかで強く叫んだ。

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生徒と僕は、1週目で「けのび」を、2週目で「水中ジャンプ」を習得し、3週目から集団のグループに戻ることができた。最高の結果と時間を過ごすことが出来た。

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そして、3か月後、土曜日のシフト表から僕の名前は消えた。どんなに良い結果を出しても、ヘッドの生殺与奪権の行使には勝てなかった。この出来事が要因の1つとなって、僕はスイミングスクールから追い出されることになる。

 

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泡って、浮くね。 3

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~反復と慣れ~

何度も何度も何度も何度も、浮いて~立ち~浮いて~立ち~、生徒の腕や指を見ると浮かび上がっていたスジがボンヤリとしてくる。慣れてきたころだ。このあたりで子供に提案する。

『両手・両足についている浮き具のどれか1つを選んで外してごらん』

すると足につけている1つを外した。その状態で…

何度も何度も何度も何度も、浮いて~立ち~浮いて~立ち~、生徒の腕や指を見ると浮かび上がっていたスジがボンヤリとしてくる。慣れてきたころだ。このあたりで子供に提案する。

『両手・片足についている浮き具のどれか1つを選んで外してごらん』

すると腕につけている1つを外した。ちょうど右腕と左足の対角線上に浮き具を装着した恰好だ。その状態で何度も練習を重ねる。そして…

『どれを残す?』

すると、片腕の浮き具を残して両足の浮き具は完全に外れた。
今度は浮いて~立ち~、これを5度。余裕を感じる。

『やってみるぅ?』

生徒は自らの手で最後の補助具を外した。プールサイドには外した補助具が積みあがっている。

再び子供の指にスジが浮かびあがる。床を踏み切るのに緊張が走る。

浮いた!

だが、“立ち”に姿勢を変化させる瞬間に片足立ちになってしまった。体の硬直と慌てた気持ちが混ざって狙い通りの動きが出来なかった。

『水の中で立つのは簡単ではないんだ。もっと時間をかけてじっくりと両手両足をお腹に近づけるんだ。両足がヘソの前に来るのをジックリと見届けてから最後に顔を上げるんだ。』

この後、目指す動作を表現するまでに多くの時間は必要なかった。直前までの反復練習で「理解した」から「体で覚えた」まで体得していたからだ。

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泡って、浮くね。 2

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~機転と伝え方~

次の週、私とのマンツーマンレッスンが始まった。開始直後、寒さでガタガタを震える生徒をみて、この状態では短時間で「けのび」クリアは難しいと感じた。一歩引いて何か別の方法は無いかと周りをみるとジャグジーが目に留まった。温かいジャグジーで練習すれば、筋肉がほぐれるだろう。

ジャグジーでは生徒の両手両足に輪っかの形をした浮き具を計4つ装着した。アームヘルパーに似たような形の浮き具だ。この練習では以下の2つに狙いを絞った。

①“フワッ”と浮く感覚に慣れる

②浮いた状態から直立への姿勢の変化を覚える(*)
(*)1つの方法として、うつ伏せ姿勢から両手両足をお腹に近づる→両足は腰よりも前方に運ぶ→両足が床に着いたのを確認してから顔を上げる。

…①は陸上では得られないプールならではの感覚だ。子供の人生において経験したことのない“フワッ”に慣れてしまうことで恐怖心を薄めてしまおうという算段だ。“習うより慣れろ”という言葉があるが「けのび」習得においては、割とこのような性質は強いと思っている。慣れるには何度も何度も反復練習が必要だ。これを満たすにはマンツーマンが最適だった。

…②。「けのび」を怖がるもう一つの理由は、体が硬直する初心者にとって“うつ伏せ”から“立ち”に戻るのは容易ではないことだ。慣れていない子供は“立ち”に戻る際、足が床に着いていないのに顔を上げようとする。こうすると体は余計に沈んでしまうばかりか、直立という安全な状態に戻れない。意のままに“立ち”姿勢に戻る術を身につけると、安心感を得て「けのび」の練習と向き合うことが出来る。

特に②に関しては(*)の順番通りに無意識レベルで体が動くまで反復練習を行う。今のは千葉の説明通りに出来たか、どの部分に不足があったか、片足で立とうとしていないか、何回連続で目指す動きが出来たか…こういったことを生徒の動きを見て判断し真実と照らし合わせて正確に伝える。

真実では無いことを真実のように偽装して褒めるのはベターでは無い。こういう指導をしてしまうと、子供は「今の練習は正確に出来たのか、それとも少し不正確だったのか、大きく的を外したのか。どの程度・具合だったのか。」そのような判断が出来なくなってしまう。

子供が身につける「出来た」「少し出来た」「どの程度出来た」という物事を判断する“感覚”を“精密な物差し”に育て上げるには、指導者が今見た動きを「どの具合で出来た」のか正確に伝える必要がある。“安易な褒め”の多くのケースにおいて、「どの程度・具合なのか」というのを掻き消してしまっている。

 

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泡って、浮くね。 1

 

~前置き~

10年以上前…教室を開催した時よりも前の話。私はアルバイト講師をしていた。

当時の私は土曜日10:30~のクラスでバタ足グループ10名強を担当。バタ足よりも更に初級の水慣れグループでは当時のヘッドコーチ(以下、ヘッド)が3名程の生徒を受け持っていた。

私が担当するグループは、ヘッドの水慣れグループから「けのび」「水中ジャンプ」をクリアした子供達が割り当てられる。特に「けのび」は恐怖(*)を克服する種目でもあるので、その恐怖心が消えなければクロールの練習も満足に出来ない。クロールの練習には最低条件として「けのび」のクリアが必要である。
(*)フワッと浮く感覚に慣れるまで恐怖を抱く子供が一定数いる

ある進級テスト日に、「けのび」が満足に出来ていないのに合格認定された生徒を目撃してしまった。実はそれ以前にも何度も何度も、出来ていないのに合格=みなし認定の現場を目撃し、その子供たちを私が責任をもって中身の伴う実力を身につけてもらう指導が何年も続いた。もう、そのような“タイムループ”に辟易していた。

もちろん、私は裏で愚痴をこぼしながらも、ヘッドの“みなし教育法”に従う人間では無い。私に認定偽証をさせるには時給1000円では足りず5億円ほどの金を積み上げる必要がある…というバカな話は置いておき、当時の私は自主的無償で「月1指導者勉強会」「週1実技練習会」「自主練発表会」を開催し、何とか“タイムループ”からの脱出を試みた。だが、上手くいかなかった。力不足だった。

話を戻し、上述の進級テスト日に「けのび」のみなし認定を受けた生徒がプール脇のジャグジーに浸かっている隙に、ヘッドコーチに向かって強く進言した。

『誤った判定をした。と本人に謝罪して認定証を取り下げてもらいたい。』

「へ?何言うてんの?あの子、浮けるで。」

『……(そんな嘘で私を騙せるとでも?!)』

もう、タイムループから脱却するには私とヘッドの目の前で例の生徒に「けのび」をしてもらうしかなかった。今でもこれは良い方法とは言えないが……ジャグジーに浸かってホッとしている生徒に声をかけ、もう一度プールに戻って「けのび」を見せてもらった。案の上、何度チャレンジしても両足が床から0.2秒離れただけで立ってしまう。強い恐怖心を感じている様子が容易に判断できた。たが、ヘッドは強引に認定証を手渡してしまった。もちろん、事務所に戻れば私とヘッドは…えぇ、皆様のご想像通りで…。

私は、ヘッドの更に上司である施設責任者に進言して、例の生徒とバタ足クラスの両方の責任の所在を千葉に置いてもらった。さらに私にサポート講師をつけてもらい、その講師にグループ本体を、例の生徒は千葉がマンツーマンで指導し、短時間で集団の泳力に追いつくプランを立てた。

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*このシリーズは2週間に1度のペースで6話まで投稿予定です

水泳のバルサミコス

皆さんは水に関する諺(ことわざ)である「水泳のバルサミコス」をご存じだろうか?

大変キツイ言い方になるが、ご存じない方は一般教養を持ち合わせていないと言えるだろう。

「水泳のバルサミコス」
この言葉の意味をChibapediaで調べると、
(先人および師の教え通りにやらない)
…と記載されている。

今回はこの諺の由来を皆さんにお話ししよう。


30年程前のこと。千葉母は「今日は、ごちそうよ♪」と宣言。テレビか本かどこからか拾ったレシピを見ながら肉料理を作っていた。完成目前、部屋中に良い匂いが立ち込めて、口に入れなくとも「美味い!!」とわかるほどだった。と、ここで千葉母は何かを思い出した。

あっ、そういえば○○さんからバルサミコスを貰ったんだぁ!☆

そう言いながら引き出しから真っ黒いビンを取り出し、盛り付け直前のフライパンにドバドバドバドバと流しいれた。その瞬間、匂いの変化に違和感を感じたが、私の脳内は“匂いだけで美味いヤツやん!”あの料理のままだった。

いざ、実食!!



アカーン!!食べたらわかる!不味いヤツやん!

人生で味わったことのない強烈な酸味が舌を突き刺し、あの時の匂いとのギャップに私の心は地の底へと沈んでしまった。その瞬間に目の前のごちそうであったはずの食事が、無理やり胃の中に押し込む苦行へと変わり果ててしまった。

「どう!?美味しい!?」

これは選択を許される質問ではない。“美味しい!また作ってほしい!”という質問者(千葉母)の意図した回答が暗示されている。それ以外の感想は許されない。

お、オイシイよ…グフッ、オエッ

おかわり♪あるからね!

やったー…グハァッ!

レシピ通り作っていれば、とてつもなく美味しい料理だったが、素人がレシピにない余計なアレンジを加えると、最悪の結果を生み出してしまう。いわゆる“蛇足”というやつだ。昭和人間の千葉母がバルサミコスを“バルサミコ酢”と理解していたら結果は少しマシだったようにも思うが、ネットが一般的ではない30年前なら無理もない。


私の教室には、まぁそれはセンセーの言うことを素直に聞かない子供たちがたくさんいる。子供ってそんなものだ。だからこそ指導や教育が必要なのだと思うし、センセーというものが存在する。あの手この手の限りを尽くし、それでも上手くいかない時は“あの足”“この足”まで…それでも上手くいかない時には“水泳のバルサミコス”の意味と由来を伝える。

普段こちらの会話にあまり注意を向けない子供でも、千葉の自虐ネタに関しては物凄く嬉しそうな表情で話を聞いてくれるが、いざ泳ぐ時間になると“バルサミコス”なオヨギで進んでいく。

“水泳のバルサミコス”…この諺は千葉キッズ達の間だけで広まっているローカルな諺…というかただの千葉家にまつわるエピソードである。教養でも何でも無いが、千葉母の失敗談から何かを学んで欲しいものである。